2014年3月29日土曜日

新作の創作を開始しました

 今年に入って「殺薔薇」「エンジェル」と立て続けに2作を発表した達成感も、燃え尽きた感も、1週間が経つとすでに朝霧のように消えてしまい、さっそく新作の創作に取りかかった、とんだジャンキー野郎の如月です。

 色々と悩みましたが、今回も、神話もの、それもぶっちぎりでぶっ飛んだ神話ものに決めました。ただし今までとは違い、次作はエジプトの神々が主役です。そう、太陽神ラーを初めとしたとても危ない連中ですね。

 ということで、題名はもちろん、「サハラ」。今回の作品も2ヶ月以内に書き上げます。というのも、すでに詳細なプロットが7割がた出来上がっているのです。問題は表紙絵で、エンジェルで死にたくなるほどの不評を浴びた苦い経験を踏まえて、今度こそは専門家にお願いしようと思います。

 では、さっそく作品の紹介を。



古代エジプトの神々が現代に蘇り、ふたたびこの世を絶望の淵へと突き落とす。
果たして人類はこの絶体絶命の難局を乗り越えることができるのか――



サハラ

如月恭介


――六月下旬、エジプト・カイロ――
「きゃー!」
 ヤスミーンはほうきを持ったまま腰を抜かした。それでもなんとか起き上がり、這うようにして部屋の隅のテーブルの上の電話機に手を伸ばした。
「た、大変です! お、お客様が……」
 唇が震えてうまく声にならない。褐色の顔は血の気を失い、彫り深い大きな目は見開いたまま固まってしまっている。このホテルで働いて二年、もちろんこんなことは初めてだ。どうしていいかわからないまま途方に暮れているところに、チーフが駆けつけた。
「なんてことだ……ヤスミーン、いっさい触るんじゃない! すぐに警察だ」
 カイロ市警が到着したのは、それから三十分ほどもたってからだった。被害者は百九十センチはあろうかという長身の、熊のように太った白人の大男。顔中を覆う茶色い髭に小粒な目が特徴的で、首には麻のロープが巻き付いている。
「強盗だな――」
 ぼそりと呟いたのは、ムハマンド警部だ。といってもべつに彼が人並み以上に洞察力に優れていたわけではない。部屋のありさまを見れば、誰もがそう思ったに違いない。大きなスーツケースはひっくり返され、部屋中に洋服や所持品がぶちまけられていた。じっさい調べてみると、財布やパスポート、その他、金目の物はいっさいがっさい持ち去られていた。
「サイード、なにボケーとつったてんだ。お前もそこらへんを調べろ!」
 ムハマンド警部に叱咤されて、ようやくサイードは小熊のようなその小さな体を動かし始めた。いかにもやる気のなさそうにベッドの下を覗いたり、シーツを捲ったりしている。そして彼が、その短い腕で枕をひっくり返したときだった。小さな、切手ほどの大きさの青いプラスチックの欠けらが零れ落ち、それを拾ったサイードは吊り上った眉をさらに吊り上げ、丸い目を寄せてじっとその欠けらを見つめた。どうやらメモリーカードのようだ。
「警部、こんなものが出てきましたけど」
 サイードはそのメモリーカードを太くて短い指で摘むと、ムハマンド警部に見えるように前へ突き出した。しかし残念ながらコンピュータに疎いムハマンド警部には、それはただのゴミにしか見えなかったようだ。
「そんなものはどうでもいい。早く犯人の手掛かりになるようなものを探せ!」
 サイードはそのメモリーカードをポケットに突っ込むと、慌ててベッドの周りを探し始めた。しかし闇雲に手に触れたものをひっくり返しているだけで、探しているというよりも、ただ散らかしているだけにしか見えない。けっきょくその日彼らは、犯人の手掛かりをになるようなものは何も見つけることができなかった。
 その後の調べで、被害者の名前はヘンリー・ダニエル、アメリカの大学教授であることが判明した。死因は頸部圧迫による窒息、首に巻き付いていたあの麻のロープで絞められたのが原因だ。
 しかし犯人の手掛かりが何も得られないまま、この事件はたったの二週間で捜査が打ち切りになってしまった。まあそれも無理はない、ここのところの政情不安で、警察当局もこんな小さな事件にいちいち構っている余裕などなかったのだ。



――七月中旬、東京――
 三十人ほどが収容可能な帝都大学の講義室を、午後の気怠い空気が包み込んでいた。単位の収得だけが目的といった風のいかにも興味のなさそうな学生が十人足らず、青春の貴重な時間を無為に費やしていた。ある者はボーッともの思いに耽り、ある者は高価な教科書に顔をうずめて涎を垂らしている。それでもかまうことなく、本条真一は話を続けた。
「……そして今から五千年前、知恵と力を付けたエジプトの民は次第に太陽神・ラーの命令に従わなくなった。そしていよいよ人類に失望したラーは、人類を滅亡させることを決意した――」
 真一は糸を引いたような切れ長の細い目を、ちらりと壁の時計にやった。三時十五分、残りあと十分だ。少し早いけれど、まあいいだろう。いつものことだ。
「最後に、何か質問はあるかな?」
 もちろん手を上げる者など誰もいない。静まり返った講義室に、無為な時間が流れる。
「じゃあ少し早いけど、今日はこれで終わりにしよう」
 途端にざわめきが広がり、ガタガタと椅子の音が響き渡る。先を急ぐ学生たち、その顔は先ほどまでとは打って変わって笑顔で満ち溢れている。
 一歩外へ出ると、どんよりとした鉛色の梅雨空が広がっていた。べっとりとした不快な空気が全身にまとわりつき、低く垂れこめた雲が生み出す閉塞感が、ますます気分を滅入らせる。
「こりゃ、もうすぐ降りだすな……」
 独り呟くと、真一は黒い傘を手にしてキャンパスの並木通りに歩を進めた。

「いったい何が起こったんだ?」
 アパートの片隅で、無造作に伸ばした天然パーマの巻き毛をかき上げながら、真一は頭を抱えていた。いくら考えても答えが出てこない。乾いた喉にグイッとビールを流し込むと、真一はもう一度パソコンのモニターに目をやった。画面一杯に灰色の板状の物体が大きく映し出され、その表面には、何やら小さな絵のような不思議な記号がびっしりと彫られている。『ヒエログリフ』という、古代エジプトで用いられた象形文字だ。真一はマウスを動かし、今度はメールを開いた。
『真一、ついに見つけたよ。神々の墓室のありかを示す地図の、最後の一ピースだ。しかしちょっと厄介なことになった。もし私に何かあったら、後は頼んだよ。――ダニエル――』
 もう何度読み返したかわからない。真一の友人、ヘンリー・ダニエルからこのメールが届いたのはもう二週間も前のことだ。そしてこれが彼からの最後の便りになってしまった。それ以来連絡の途絶えていたダニエルの悲報が届いたのは、つい昨日のことだ。彼が他界してからすでに二週間も過ぎていた。
 真一とダニエルとの親交は、もうかれこれ五年にもなる。カイロで開かれた考古学会の会議で知り合ったのがきっかけで、今でもそのときのことが昨日のことのように思える。真一は宙に目をやり、その日のことを回想した。
――五年前のあの日の夜、会合が開かれたホテルのバーのカウンターで、真一はウィスキーを飲んでいた。
「隣、いいかな?」
 はっとして振り向くと、茶色い髭に埋もれた赤ら顔の大男の笑顔があった。
「あ、ああ、先ほどはどうも……」
 たしか今日の会議で、真一の発表のときに質問をしてきた男だ。特徴あるその髭面と巨体は、忘れようがない。
「えーっと、君の名前は、たしかカミジョウだったね」
 隣の席の椅子を引きながら、小さな目を少し細めて男は尋ねた。
「うん、上条真一だ。真一と呼んでくれ」
「私はヘンリー・ダニエルだ。イリノイ大学で考古学の研究をしている」
 二人は握手を交わすと、お互いに簡単に自己紹介を済ませた。ダニエルは四十二歳、真一よりも十歳ほど年上で、真一同様に背が高く、百八十センチは軽く超えているだろう。とはいっても華奢な真一とは対照的に、熊のように太い体をしていた。専門は古代エジプトで、一介の研究生の真一とは違って研究室を構える堂々たる教授だ。しばらく世間話をした後、唐突にダニエルが切り出した。
「真一の意見、とても興味深かったよ」
「僕の意見?」
 真一は首を傾げた。
「今日の会議での、君の発表のことさ」
「ああ、そのことか」
 真一は小さく頷いた。彼は今日の会議で、ギザのピラミッドの建造理由に関する独自の説を発表したばかりだ。
 ピラミッドの建造理由に関しては、様々な説がある。最も一般的なのは、王の墓だという説だ。じっさいそれを裏付けるように、数多くのピラミッドから当時の王の棺やミイラが発見されている。しかしそれを否定する意見があるのも事実だ。その意見の中のひとつが、神々の祭壇だという説である。その祭壇説の中にも色々あって、神々が天と地を行き来するためのものであるとか、宗教儀式行うためのものであるとか、多種多様である。あるいは、失業対策のためにつくられたものだと主張する者もいる。いわゆる公共事業である。古代エジプトでは毎年のようにナイル川が増水したと考えられていて、その間は農地が水の下に沈んでしまい農民は仕事が出来ない。そこでその期間の農民の仕事を補償する目的で、つまり失業対策のために建造されたという説である。その公共事業目的という説の中にも、また別の理由を唱える者もいる。それは人民統治である。ひとつの共通目的のためにともに汗を流し、そのことで人民の心を一致団結させようとしたのだというものだ。
 しかし真一の考えは、それらのどれとも異なっていた。彼の考えているピラミッドの建造理由とは、『神々の家の提供』である。もちろん神々が物理的に存在したわけではないから、正しくは、『神々の魂の安息場所の提供』と言った方が適切かもしれない。古代における神々とは我々が一般に想像するようなものとは少し違い、万能であるこということには相違ないけれど、決して慈悲深い存在などではなかった。すこぶる感情的で、わがままで、利己的な存在だったのだ。機嫌を損ねれば荒れ狂い、人類に多大なる災害をもたらす危険な存在として捉えられていたのだ。しかも古代の人々にとっての神々とはけっして抽象的な概念としての偶像ではなく、この世に実在する身近な存在だったのである。もちろんその姿形は見えなかったに違いないだろうけれど。
 だから古代エジプトの王たちは、その神々の機嫌を損ねないように彼らのための快適な居場所を提供した、というのが真一の考えだ。
「ダニエルはどう考えているんだい?」
 真一が訊ねると、ダニエルは思わせぶりにあごひげを撫でつけ、そして少し間をおいておもむろに口を開いた。
「どちらかというと、真一の意見に近いかな」
「どちらかというと?」
「ああ、神々の怒りを鎮めるのが目的だという点では、真一と同じ考えだ」
「じゃあ、君もあれは神々の家だと?」
 そう言うと、真一は琥珀色のグラスを口に運んだ。氷の山が崩れ、カランと乾いた音を立てた。
「少し違うな。かつては私も、真一と同じことを考えていた時期もあるけどね」
 ダニエルはその太くて短い首を軽く横に振った。
「じゃあ、今はどう考えているんだい?」
 真一は手にしたグラスをゆっくりと回した。じっとそれを見つめるダニエルの表情が次第に真顔に変わり、そして低い声でボソリと言った。
「あれは、神々の墓だ――」
「か、神々の墓だって……」
 かつて聞いたこともない突拍子もない新説に、真一はわが耳を疑った。しかしそんな彼の反応は想定していたと言わんばかりに、ダニエルがさらに驚くべきことを口にした。
「ああ、間違いない。その確証も見つけたよ」
 まるで真一の反応を楽しんでいるかのように、ダニエルは目尻に皺を寄せて悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「確証だって?」
「嘘じゃないさ。もちろん、このことはまだ誰にも話をしていない。先を越されるのが嫌なんでね」
 ダニエルはその赤ら顔を崩し、今度は声を出して笑った。聞けば、彼はもう十年も前からその調査に取り組んでいるというではないか。
「それで、その確証っていうのは、なんなんだい?」
 真一は待ち切れず、先を急いだ。ダニエルは少し悩むそぶりを見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「石版だ」
「石版? ヒエログリフってことかい?」
「そうだ」
「いったい何が描かれているんだい?」
 真一の声のトーンが一オクターブほど上がった。好奇の色を隠しきれず、その目は爛々と輝いている。一方のダニエルはというと、黙ったまま腰を屈め、床に置かれた茶色い鞄を持ち上げると、太い右腕を伸ばして中からパソコンを取り出した。そしてそれを乱暴にカウンターの上に置いて蓋を開け、上目づかいでキーボードを叩き、「よし」と独りつぶやいてパソコンを真一の前に突き出した。
「これがその一部だ」
 モニターには、石版を撮影したと思われる一枚の写真が画面いっぱいに大きく映し出され、その全面をびっしりとヒエログリフが埋め尽くしていた。しかしいきなり象形文字を見せられても、悲しいかな、真一にはすぐには解読できない。もちろんそんなことはダニエルも承知の上で、
「ここを見てごらん。ここだ」
 ダニエルは石版の一番上の行をその太い指で辿ってみせ、そして辿りながら自分で口を動かした。
「死したラーとその仲間たちは冥界に眠れし。彼らが目覚めぬように、冥界をファラオのピラミッドが守りたもう――。どうだい、面白いだろう?」
 ラーというのは、エジプト神話に出てくる太陽神である。太陽神ラーは天を造り、万物を創造したとされる神で、エジプト神話の中心的存在でもある。地上の人間を守らせるためにオシリス、イシス、セット、ネプチス、ホルスなどの神々を創造する一方で、自分を敬わなくなった人類を滅ぼそうともした、凶悪な面を併せ持ったおそろしい神だ。
「つまり……ここに書かれた『冥界』というのが、墓だというわけか……」
 真一の声は震えていた。細い目をこれ以上ないくらいに大きく開けたまま、瞬きもできない。
「そういうことだ。石版はこれ一枚だけじゃない。これ以外にも、たくさんの石版があるんだ。そこには神々の墓のことが、もっと詳しく書かれているんだよ」
 意味深げな笑みを浮かべてそう言うと、ダニエルはパソコンの蓋をパタン、と閉じた。真一はまだ混乱した頭の中を整理できないでいた。口の中で何度も石版の文句を復唱する。――死したラーとその仲間たちは冥界に眠れし。彼らが目覚めぬように、冥界をファラオのピラミッドが守りたもう――

2014年3月25日火曜日

月狂四郎さんに紹介していただきました

 めったに相手にされることのない、ましてや書評なんて夢のまた夢の個人出版の物書きにとって、これほど嬉しいことはありません。そう、拙著「エンジェル」をさっそくご紹介いただきました。

ペンと拳で闘う男の世迷言

 やはり個人出版作家であられる月狂四郎さんです。じつは氏は、なんと現役のボクサーでもあられるのです。驚き、桃の木、さんしょのき、ですね。格闘技と文学、一見相反するように思えるlこの不思議な取り合わせが、氏の独特の文体を生み出しているんだろうなと思う、今日このごろなのです。しかもじつは、氏には以前にも拙著のご紹介をいただいているのです。これです↓

「殺人は、甘く切ない薔薇の香り」書評

 どうですか? 残念ながら、僕の作品よりも筆致が秀逸なわけですね。困ったものです。しかも作品の内容を、書いた僕よりもよく理解されているときた日には、穴でも見つけてさっさと隠れてしまいたい気分になるわけです。恐るべし、個人作家のレベル! と、つい窓のない部屋で叫んでしまいました。

 現役でボクサーということは、まだまだかなり若い殿方と勝手にお見受けしました。それでいてこの世の中を達観したような見地と熟練された筆致、近いうちに名を馳せること間違いなしと、僕なんかに押されても困るであろう太鼓判を、勝手に押させていただきます。

2014年3月24日月曜日

新作発売のお知らせ 『エンジェル』

 先日ご案内いたしましたように、新作 【エンジェル の発売を開始致しました。



本格SF長編大作


 遺伝子に隠された神々の陰謀により滅亡の危機に瀕した人類、その人類を救うべく立ち上がる、遺伝子学者考古学者新聞記者政治家、そしてストリップダンサー……
 構想3年、神話サイエンス・ロマンス・ユーモア、それらすべてを凝縮した、本格的SF長編大作です。



―人類存亡を賭けた壮絶な戦い― 

 前触れもなく突然発生し、脅威的な勢いで蔓延する致死率100%の謎の奇病。世界中の科学者たちがその解明に手を焼く中、日本の遺伝子学者・五十嵐豊がその原因の糸口を見つける。そして次第に明らかになる、奇病に隠された恐るべき秘密。 
 数千年も前に神々によって遺伝子に仕掛けられた、巧妙でかつ壮大な罠。人知を超えた克服しがたい難局を迎え、人類は滅亡の危機に瀕する。 
 天才遺伝子学者、異端の考古学者、博愛のストリッパー、熱血の新聞記者、異色の政治家……個性豊かな面々が織り成す人類救済の熱いドラマが、いまここに始まる―― 
 神話とサイエンスが複雑に絡み合い、人間とは何か、勇気とは何かを改めて世に問う、涙、笑い、怒り、感動、それら全てを凝縮した、著者入魂のミシック・サイエンス・フィクション。 
-------------------------------------------------------------------- 
※ 完全書き下ろし初公開 
※ 紙の本でのページ数:約320ページ(40字 x 16行換算)


2014年3月8日土曜日

もうすぐ新作発表です ―エンジェル―

発売日が決まりました。3月24日(月)です¥99で発売です。乞うご期待 

いよいよ新作の創作も佳境に入ってきました。如月恭介、久しぶりに燃えています。ということで、改めてこの作品を紹介させていただきたいと思います。
 題名は、エンジェル。神々の仕掛けた壮大な罠により滅亡の危機に瀕した人類、その人類を救おうと立ち上がる勇敢な男と女たちの熱き戦いの物語です。
 僕が言うのもなんですけれど、かなり難解な科学用語が飛び交う、まさにサイエンスフィクションです。いま世間を騒がせている万能細胞も登場します。その上古代神話まで絡まって、何がなんだかわからない玉虫色の世界が広がります。
 先ほど読み返して、僕は三度泣きました。皆さんには、最低でも5回くらいは泣いていただきたいと思います。この作品を発表したら、二ヶ月間は執筆を休み、これまでの作品の書き直しや宣伝活動にもっぱら励むつもりです。それほどにこの作品には思い入れがあるということで、おそらく、きっと、いやたぶん、期待を裏切ることはないと思っています。愉しみにしていただいて、そして発売の暁には、ぜひとも買っていただきたい。いや、買って下さい。

ぜったいに後悔なんてさせないぜ!



タイトル: エンジェル
副題:   ― 人類存亡を賭けた壮絶な戦い ―

【内容紹介】


 前触れもなく突然発生し、脅威的な勢いで蔓延する致死率100%の謎の奇病。世界中の科学者たちがその解明に手を焼く中、日本の遺伝子学者・五十嵐豊がその原因の糸口を見つける。そして次第に明らかになる、奇病に隠された恐るべき秘密。
 数千年も前に神々によって遺伝子に仕掛けられた、巧妙でかつ壮大な罠。人知を超えた克服しがたい難局を迎え、人類は存亡の危機に瀕する。
 天才遺伝子学者、異端の考古学者、博愛のストリッパー、熱血の新聞記者、異色の政治家……個性豊かな面々が織り成す人類救済の熱いドラマが、いまここに始まる――
 神話とサイエンスが複雑に絡み合い、人間とは何か、勇気とは何かを改めて世に問う、涙、笑い、怒り、感動、それら全てを凝縮した、著者入魂のミシック・サイエンス・フィクション。
--------------------------------------------------------------------
※ 完全書き下ろし初公開
※ 紙の本でのページ数:約310ページ(40字 x 16行換算)

以下、冒頭部分


エンジェル

如月恭介


神は申された
われわれに似せて人をつくろうではないか
彼らに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地上のすべての動物と、地上に這うすべてのものを治めさせようではないか

――旧約聖書 創世記 第一章 二十六――





「いやっほー!」
「ジュリアちゃーん!」
 薄暗い客席は年配の男たちで埋め尽くされ、左右の壁際には立ち見の客までいる。いつものようにトリの演技を終えると、ジュリアは裸の上に赤いフェイクファーのガウンを羽織り、客席に手を振りながら狭いステージを後にした。
「お疲れー」
 ジュリアが楽屋に入るなり、マリーが抱きついてきた。スイカのように大きな裸の胸をユサユサと揺らせている。
「マリーさん、ちょっと苦しい……」
 ジュリアが苦笑いを浮かべると、
「あっ、ゴメンゴメン。でもジュリアを見ると、つい抱きしめたくなっちゃうんだよね」
 マリーはそう言って、オタフクのようにふっくらとした顔に満面の笑みを浮かべた。そしてその太い腕からジュリアの身体を解放すると、楽屋の入り口を見ながら思い出したように言った。
「そろそろ押しかけてくるころね。大丈夫、あたいが守ってあげるから。矢でも鉄砲でもきやがれってんだい」
 マリーがその大きな胸を張ると、椅子に座って化粧を落としていた亜矢子が振り向いてからかった。
「そりゃそうだ。あんたが入り口に立ってるだけで、誰も入ってこれないさ」
 その途端、楽屋にいた五、六人の踊り子たちが一斉に吹き出した。ジュリアも笑っている。微塵の濁りもない向日葵のような笑顔だ。
 そうするうちにマリーの言ったとおり、楽屋の外が騒々しくなってきた。でもそれもいつものことで、踊り子たちは驚く素振りも見せない。
「また来たよ」
「ほらマリー、あんたの出番だよ」
 みんなそしらぬ顔をして鏡に向かって手を動かす。もちろんマリーも心得たもので、「はいよっ」とまるで食事の後片付けでもするように楽屋の入り口に向かった。
「ほらっ、ここから先は駄目だよ。渡すもんがあるならあたいがあずかっとくから、さっさと出しな」
 もうどっちが客だかわからない。もちろん客も黙ってはいない。
「なんだよ、またマリーかよ」
「なんだよとは、なんだよ!」
「いいから、ジュリアちゃんに会わせろよ。いるのはわかってんだよ!」
「うるさいっ! ジジイは家に帰ってお茶でも飲んでろってんだ」
「ジ、ジジイだと、このブタ女が!」
「ブ、ブタだって! ふざけんな、トンチキジジイが。おまえなんて二度とこなくていいよ!」
 もう無茶苦茶である。もちろん今日に始まったことじゃない。そして見るに見かねたジュリアが寄ってきた。これもいつものことだ。
「ごめんなさいマリーさん。あっ、ゴンさん! また来てくれたの! 嬉しいっ!」
 ジュリアは透き通った目を輝かせ、子供のように弾ける笑みを浮かべた。
「ジュ、ジュリアちゃん! あ、当たり前だのクラッカーだぜ。ジュリアちゃんの行くところ、どこまでもついていっちゃうもんね、わし」
 ゴンさんと呼ばれた男――年の頃は五十過ぎといったところか――は、恥ずかしげもなくお寒いギャグを飛ばした。でもこれもいつものことである。そして手にした花束を照れくさそうに前に差し出した。
「こ、これ――」
 日焼けした――いや酒焼けかもしれないその浅黒い顔が、スッポリ隠れるほどのでっかい花束だ。一万円は下らないだろう。
「ゴンさん、ありがとー!」
 ジュリアの澄んだ笑顔と全身で見せる喜びの表現が、それが営業目的なんかじゃないことを如実に物語っていた。おかげでゴンさんはもう心ここにあらずで、トローンとした目を宙に泳がせ、もともと締まらない口元をさらにいっそう緩ませている。
 でもこんなことじゃこの騒動はとても終わらない。ゴンさんの後ろには、まるで金魚の糞のように長い列が連なっているのだ。もちろんみんなジュリアの熱狂的なファンだ。そしてそれをさばくのは、やはりマリーの仕事だ。いや、仕事というと語弊があるかもしれない。なにしろ誰が頼んだわけでもなく、彼女が勝手にやっているだけなのだから。
「ほら、ちゃんと並んで。おいそこのおっさん、あんただよ、駄目だろ割り込んじゃ」
 客を客とも思わない横柄な態度のように思われるかもしれないが、客は客でこれを楽しみにしているのだ。
「こらぁマリー。邪魔だよおめえ。おめえがそこにいたら、ジュリアちゃんが見えねーだろうが」
 周りでドッと歓声が上がる。しかしマリーは怯む様子も見せない。
「うるさいよ、つんつるてん。ほらっ、プレゼントはあたいが受け取っとくから、さっさと渡してさっさと帰んな。あとでちゃんとジュリアに渡しとくから」
「盗むなよマリー」
 また笑いが沸き起こる。そんなことを繰り返しながら、三十分ほどでようやく客たちも引き上げた。
 帰り支度を済ませて十一時過ぎに楽屋を出ると、ジュリアはマリーと一緒に猥雑な雑踏の中をホテルへと向かった。梅雨のまっただ中、でも幸いにも雨は降っていない。暗くてよくはわからないけれど、どうやら空は低い雲に覆われているようだ。
「毎日暑くて、いやになっちゃうね」
 マリーが額に汗を浮かべながらぼやいた。
「ええ、でも梅雨ですからしょうがないですよ」
 ジュリアも、その端正な顔を右手の甲で拭った。
「それにしても、相変わらず人が多いね。こんな時間だってのに」
 マリーが通行人をよけながら眉をひそめる。
「ええ、でもみんな楽しそうですよ」
 ジュリアが言うと、
「まあそうだけど、でも、なんか人間が多すぎない? このまま増え続けたら、道も歩けなくなっちゃうよ」
 そう言って、マリーはまたその肉付きのいい身体を斜めに曲げて通行人をよけた。
 テレビではたしか少子化とかいって、人口が減るようなことを言っていたような気もするけれど、難しいことはジュリアにはよくわからない。だからここはあえて何も言わないでおくことにした。
 中央通りに出て大きな交差点を渡ると、左手に上野駅の古風な佇まいが見えてきた。
「昔から変わらないねえ、この辺りは」
 マリーが懐かしそうな口調で言った。ジュリアには、その昔というのがいったいいつ頃のことを言っているのかよくかわからない。今年でようやく二十四歳になるジュリアが知っている上野は、せいぜい十年くらい前までのそれだ。
 ホテルまでもうすぐのところで先を行くマリーが振り向いた。
「どう、軽くやっていこうか?」
「いいですね」
 ジュリアが嬉しそうに笑った。マリーの言う「やっていく」というのは二人だけの暗号のようなもので、食事をしながら酒を飲むことだ。いや、マリーの場合はその逆と言った方がいいかもしれない。酒を飲みながら食事をする――彼女の一番の目的は、酒を飲むことなのだ。
 マリーは人混みの商店街を、まるで我が庭のように突き進んだ。その後ろをジュリアが、肩をぶつけながら難破船のように従う。二人は路地を一本中に入り、少し寂れた一角にある小さな店の前で立ち止まった。入り口に据えられた縦長の青い看板には、白い字で『すみれ』と書かれいる。のれんをくぐると、いきなり女性の声が飛んできた。
「あっ、マリー! それにジュリアちゃんも! ほら、早く入って!」
 カウンターの中で上品な和服姿の女性が、小さく跳ねながら右手を前に伸ばしている。
「すみれさん、お邪魔しまーす」
 マリーがその肉付きのいい体を大きく曲げて挨拶をした。ジュリアもペコリと頭を下げる。二人はまるでそれがあらかじめ決められたことのように、カウンターの最奥の席に並んで座った。もう遅い時間だからなのか、あるいはもともと客が少ないのか、店内はずいぶんと空いていてた。というか、他に客は一人だけだ。カウンターの反対側の端っこに座っている初老の男で、着飾ってはいるけれど決して嫌味じゃなく、それでいてしっかりと個性を主張した装いで、言い知れぬ上品な雰囲気を漂わせている。
「なに飲む?」
 カウンターの中から女将が訊ねた。結った髪が面長の上品な顔を引き立て、四十過ぎと思しきその年齢を逆に風格へと昇華させている。
「生ビール!」
「わたしも生ビールで」
 二人が言うと、カウンターの反対側から声がした。
「元気そうじゃないか、マリー。それにジュリアちゃんも」
 二人が振り向くと、ベレー帽を被った初老の男が右手を挙げた。
「あれ、西条さんじゃない。でもどうしてジュリアだけ、ちゃん付けなのよ」
 マリーが唇を尖らせる。
「いいじゃないか、これも愛情の表れだよ」
 西条と呼ばれた男が、血色のいい面長の顔に屈託のない笑みを浮かべた。しかしすぐに視線をカウンターの中に向け、
「でもすみれちゃんに対する愛情に比べたら、ミミズの糞みたいなもんだけどな」
 そう言って、こんどは悪戯っぽく笑ってみせた。するとすみれと呼ばれた女将がジョッキにビールを注ぎながら顔を上げ、
「あら嬉しい。でも西条さんに対する私の愛だって、負けてないわよ」
 そう言ってその端正な顔を崩してみせた。
 じつはこのすみれという女性は元は売れっ子のストリッパーで、マリーやジュリアの大先輩に当たる。十年前に引退してからはもっぱら女将としてこの店を切り盛りしていて、その常連客の多くが、西条のような当時の熱狂的なファンなのである。
 乾杯をして料理をたのむと、二人の話題は自然とそれに向かった。
「また五人だって。怖いわね」
 マリーが眉を顰めた。ジュリアもうなずいたけれど、どうやらマリーの思ったこととは少し違うようだ。
「ほんとうに可愛そうですよね、突然死んじゃうなんて」
 まるで自分のことのように心を痛めている。そんな二人の会話にあの西条が横から割って入った。
「なんでも発病して二ヶ月もしないうちに、みんな死んじまうらしいからな。まったく恐ろしい話だよ。気をつけようにも、原因がわかんないんじゃどうしようないしな」
 西条の言うように、数ヶ月前から突如として猛威を振るいはじめたこの奇病は、まだその原因がまったくわかっていない。最初は当然のようにウィルスや細菌が疑われたが、発生場所が偏っておらず、しかも患者からはなんのウィルスも細菌も発見されていない。それどころか、患者の細胞にもなんの異常も見られないという。原因のわからぬままに奇病による被害者の数は増え続け、今では全世界で毎日五人近くの人が命を落とすまでになった。
 原因もわからず細胞に異常も見られないのに、これらの患者が同一の病気を発病したと見なされているのには、もちろん理由がある。それは症状だ。人によりその場所にこそ違いはあるものの、皆一様に身体のある部位が急に老化を始め、みるみるそれが全身に蔓延し、発病から二ヶ月もしないうちに死んでしまうのだ。
「でもやーね、急に老けて死んじゃうなんて」
 すみれが言うと、
「でも西条さんなら、発病してもわかんないかもよ」
 マリーが憎まれ口を叩いた。もちろん西条も黙ってはいない。
「どういうことだよマリー。年寄りを敬えと、学校でも習っただろうが」
「だってあたい、小学校までしか行ってないもん」
 マリーが口を尖らした。
「そうか、そりゃ悪いことを言ったな……」
 西条が申し訳なさそうな顔をして謝ると、すみれが思わず吹き出した。
「西条さん、そういうところが素敵」
「そういうところだけかよ、ちぇっ……」
 そう言いながらもまんざらではないのだろう、西条は照れくさそうにウィスキーグラスを口に運んだ。
――おそらく今のこの時間、日本中で同じような会話がなされているに違いない。何もわからない、ということがますます人々の不安を煽り、蔓延しているとは言ってもまだ被害者数が累計百名足らずのこの病気を、かつてない恐怖の大魔王に仕立て上げていた。日毎に患者の数が増え続けているという事実も、それに一役買っているのかもしれない。幸いにも日本ではまだ被害者が出ていないけれど、それでも最近は、テレビや新聞でこの話題が目立つようになってきた。
 それから小一時間、二人は料理に箸をのばし、酒もビールからサワーに変えて、ほどよい酔い加減にその顔を桜色に染めた。
「そろそろ帰ろうか」
 マリーに言われてジュリアが時計に目をやる。もう零時を回っていた。西条もすでに帰った後で、客は彼女たちだけだ。
「そうですね。すみれさんにも申し訳ないし」
 ジュリアが言うと、すみれが怒るような口調で返した。
「なに言ってるのジュリアちゃん、気を遣うのはやめてよ。あなたたちのためだったら、朝まで開けててもいいのよ」
 睨んだ顔から、二人への愛情が滲み出ている。実際すみれにとって彼女たちは、我が娘のように愛おしかった。
「ありがとうございます、すみれさん。でも、明日も仕事があるし」
 そう言ってジュリアは腰を浮かした。マリーはすでに立って、バッグから取り出した財布を握っている。
 勘定を済ませると、二人はふたたびのれんをくぐって店を後にした。湿った熱気はこの時間になっても弱まる気配をまったく見せず、容赦なく二人に襲いかかる。
「早く梅雨が開けないかなー」
 マリーがぼやくと、ジュリアも相づちを打った。
「そうですね、もうすぐ夏ですね」
 遠くを見るようにして言ったジュリアの目には、きっと燦々と輝く太陽が映っていたのに違いない。

 雑踏の中に佇むそのホテルは古くからあるビジネスホテルで、なんでももう三十年以上も前に建てられたのだそうだ。久年の風雪に耐えてきたその姿容は、趣というよりもむしろ寂寥とした侘しさを漂わせていた。ここは関東の方々を興行して回る彼女たちに取ってはすっかり馴染みのホテルであり、年に数ヶ月以上をも過ごす定宿でもある。一水館という野暮ったい名前も、慣れてしまった今では特に違和感も覚えない。
 ロビー――と言っても銭湯の待合室ていどの広さだが――に設えられた小さなカウンターの中で、頭のすっかり禿げ上がった小柄な老人が丁寧に頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま、林さん」
 マリーは、いかにも親しげに声をかけた。実際彼女とこの老人とのつきあいは、もう十年以上にもなる。マリーがこの世界に入って以来の仲だ。といっても、ホテルのオーナーとその常連客、それ以上のものは何もない。
 青いプラスチックの棒に繋げられた鍵を受け取ると、二人は狭いロビーを進んで奥のエレベータに向かった。ガタガタとやたらと五月蠅いわりには遅い箱に揺られて三階で降り、そこで二人は別れた。
「じゃ、また明日ね」
「はい。お休みなさい、マリーさん」
 明日の待ち合わせのことは今さら言わなくても暗黙の了解だ。簡単な挨拶を交わすと、二人は細い廊下をそれぞれ反対側に向かって歩き始めた。
 部屋に入ると、ジュリアはさっそくお風呂を浴びた。汗でべとついた身体を洗い流し、湯船に浸かって一日の疲れを癒やす。風呂から上がると急に眠気が襲ってきた。ほどよく回ったアルコールのせいかもしれない。ジュリアはベッドの上に横になり、その眠気に抗うことなく、暗い闇の中に吸い込まれていった。

 翌朝七時に目を覚ましたジュリアは、着替えを済ませて二階にあるレストランへ向かった。ブルーのTシャツに白いホットパンツ。冷房は効いているものの、湿度が尋常じゃない。この格好でも少し汗ばむほどだ。十人も入れば満席になるような狭いレストランには、すでに先客が一人いた。
「おはよう、ジュリア!」
 大きな胸を揺らしながら手を振っているのは、もちろんマリーだ。
「おはようございます、マリーさん」
 ジュリアは小走りに駆け寄って、テーブルをはさんでその対面に腰を下ろした。マリーの前にはすでにコーヒーカップが置かれ、ユラユラと白い湯気を立ち上らせている。
「まゆみちゃーん、コーヒーお願い!」
 マリーが声を上げると、「はい」と、化粧っ気のないおかっぱ頭の若い娘が、キッチンの奥で小気味よい返事をした。そして右手にポットを持って二人のいるテーブルまでやってきた。黒い服に白いエプロン、流行りのメイド服にも少し似ている。
「それと食事持ってきてくれる?」
 カップにコーヒーを注ぐ娘に向かってマリーが言うと、今度も「はい」と大きな声で返事をして、娘はふたたびキッチンの中に姿を消した。
「まゆみちゃんは、あいかわらず元気ね」
「ええ、こっちも元気をいただいちゃいました」
 ジュリアが嬉しそうに顔をほころばした。それを見たマリーが、
「あたいには、あんたの笑顔の方が元気が出るけどね」
 そう言って、その丸っこい手をカップに伸ばした。
 ほどなくして朝食が運ばれてきた。大きめの皿にはスクランブルエッグとベーコン、それにパンが盛りつけられ、もう一つの小皿には山盛りの青いサラダだ。さっそく二人は手を伸ばし、空っぽのお腹の中に朝の英気を詰め込んだ。
 朝食を終えると、二人はふたたび部屋に戻った。ジュリアは窓際に置かれた小さな机の前に座り、愛用のノートパソコンの蓋を開けた。電源を入れてSNSのサイトを開くと、新着のマークのついたメッセージが際限なく連なっている。数十通、いや百通近くあるかもしれない。そのほとんどが彼女のファンからのもので、応援や励ましのメッセージに混じって食事やデートへの誘いも多数あり、中には「結婚して下さい」という単刀直入のものまである。明らかに嫌がらせと思われるものを除いて、それらのメッセージすべてに返事を書く。それがジュリアの毎朝の日課である。
 午後二時になるとロビーでマリーと落ち合い、二人は土砂降りの雨の中を劇場へ向かった。たちまちジーンズがびしょ濡れになり、傘が本当に役に立っているのかどうかを疑いたくなるほどだ。そのうちにTシャツまで濡れてしまい、白い下着がはっきりと透けて見える。
「ジュリア、あんた下着まで丸見えだよ。ほら、みんなジロジロいやらしい目で見てるじゃない」
 マリーは気が気でない様子だけれど、ジュリアは一向に気にする素振りを見せない。
「いいじゃないですか、みんなに喜んでもらえるなら。なんならここで脱いじゃいましょうか?」
「バカ言ってんじゃないよ。でもまあジュリアらしいね。あたいはただで見せるなんてまっぴらゴメンだけどね。ほら急ごう」
 楽屋に入ると二人はさっそくショーの準備に取りかかった。一回目の公演は三時からで、六人の踊り子たちの持ち時間がそれぞれ二十分。トリを務めるジュリアの出番は四時四十分だから、まだだいぶ時間がある。でもトップバッターのマリーは忙しい。あと三十分もしたらステージに立たなきゃならないのだ。睨みつけるようにして鏡に顔を近づけ、忙しそうに手を動かす。そしてその背後に立ったジュリアが髪を結う。化粧からヘアメークまで、いや、衣装すらも自前で用意しなければならない厳しい世界、お互いが助け合わなきゃとてもやっていけない。
「よしっ!」
 大きな胸がはみ出てしまいそうな赤い小さな下着、着ていることがあまり意味をなさないほどに透けた紫色のネグリジェ、豊満な身体を妖艶に飾りつけたマリーが気合いを入れた。いよいよ出番だ。
 マリーがステージに姿を消すと、ジュリアはホッと一息ついた。でもゆっくりしている時間なんてない。今度は亜矢子の手伝いだ。さっそく彼女の後ろに立って髪をとく。もうすっかり手馴れたもので、プロのヘアメークも顔負けの手さばきだ。
 そうするうちにあっという間に時間が過ぎ、いよいよジュリアの出番がやってきた。目の覚めるような真っ赤なフェイクファーのガウンを羽織り、劇場へのカーテンをくぐる。照明の落ちた暗いステージに上がった途端、一斉にスポットライトが降り注いだ。あらかた満席の客席から、怒濤の歓声と拍手が沸き起こる。ガウンをはだけながら踊り、ジュリアは笑顔を振りまいた。そのたびに弾ける観客たちの笑顔が、ジュリアの気持ちをますます高揚させる。そして音楽が止むと、手にかけたガウンを一気に上方へ投げ捨てた。その瞬間、客席はまるで地震でも起きたかのような地響きに包まれ、鼓膜が破れんばかりの歓声が響き渡った。乳首が、いや陰毛までもが透けて見える薄いピンク色の下着姿で、ステージをところせましと踊り回る。そしてまた音楽が止み、今度はブラジャーに手をかけた。つい今まで賑やかだった客席も、たちまちシーンと静まりかえる。ホックを外し、今度はゆっくりと、まるで恋人をじらすようにしてそれをはずした。たちまち客席を歓声の渦が包み込み、ジュリアもそれに応えるように満面の笑顔を浮かべてステージを駆け回る。最後に、放ったガウンを拾ってそれを羽織ると、ジュリアは客席に手を振りながらゆっくりとステージを後にした。