2016年5月29日日曜日

執筆中の新作の冒頭部分をご紹介 その2

前回の続き――

 ジャパン・ウィークリーが調査を進める間にも、海外ではすでにその情報は猛烈なスピードで駆け巡り、一大事件となって世を騒がせていた。名前を掲載されたイギリスの首相・マッカランは苦しい弁明に明け暮れ、アイスランドの首相はなんと辞任にまで追い込まれてしまった。ロシアの大統領も青息吐息だ。
 そしてその二週間後――
 ようやくこの日本でもその事件が広く知られるようになった。発端はジャパン・ウィークリーの記事だ。といってもその反響は、これまでのスクープに比べればいたって静かなものだった。芸能人や政治家のゴシップに比べれてそれは、一般民衆にとっていまひとつピンとこない、捉えどころのない記事に過ぎなかったのだ。しかしその一方で、名前を掲載された政治家や企業家や資産家にとっては虚を突く衝撃的な事件であり、放っておけば致命傷になりかねない一大事であった。彼らは鎮火に向けた早急なる対応を迫られていた。
 その先陣を切ったのが、高木電脳だ。そう、ネット通販で国内最大のポータルサイト『自由市場』を運営し、プロ野球球団の『自由ライナーズ』のオーナーでもある、あの新興の大企業である。あろうことかその高木電脳の社長である高木正人の個人名が、ケイマンリークスのリストに代表者としてリストアップされていたのだ。雑誌の発売された翌日の火曜日、さっそくその高木が、高木電脳のウェブサイトを通じて弁明のメッセージを発信した。
『ケイマンに会社を設立したのは事実です。しかしそれは会社の設立や清算手続きが簡単に行えるのが理由であり、取引を迅速に進めるのが目的であります。けっして租税回避を目的としたものではありません。じっさい顧問税理士からは、日本の税務当局から求められた必要な情報を開示し、法律専門家から意見を聞いた上で正しく納税を済ましていると聞いております。したがって、まったく違法性はないと認識している次第です』
 対策マニュアルをコピーしたようなこのメッセージに、投稿サイトやSNSはとうぜんのように大炎上した。しかしなぜか大手マスコミはこの話題を避けるようにして、例の政治家の醜聞を流し続けていた。
「まったくこの国は……」
 店に置かれた新聞を放り投げ、吐き捨てるようにそう言うと、祥子はグラスのビールを飲み干した。
「おだやかじゃねえな祥子ちゃん。なんかあったのかい?」
 カウンターの奥で、定食屋の主が怪訝な表情を浮かべた。
「ううんべつに。そういえばおじさん、この店の七転八起って名前、どういうわけでつけたの?」
 祥子が訊ねると、主は一瞬その顔に暗い影を落とし、でもすぐにいつもの温和な表情を浮かべた。そして時計に目をやり、「十一時か……もう客は来ねえな」小さくつぶやくと、女将に向かってしゃがれた声を上げた。
「おい登美子、おめえも一緒に一杯やるか」
 女将は丸い顔に満面の笑みを浮かべ、
「あらいいわね。じゃ、さっそく用意するわね」
 白いエプロンで手を拭きながら、弾むように厨房に向かった。
 主は腰を上げ、「どうせもうこねえだろうけど、いちおうな」そう言って店の外に出て、『営業中』と書かれた札をひっくり返した。そしてまた戻ってくると、
「祥子ちゃんは焼酎でいいよな?」
 祥子の顔を覗き込んだ。
「うん、もちろんロックでね」
 祥子が笑うと、主も目尻に深いしわを寄せた。
 主は祥子の向かいに腰を下ろすと、厨房に向かって大きな声で怒鳴った。
「おーい登美子、はやく焼酎を持ってこい!」
 女将も慣れたもので、
「はいはい」
 間をおかずにボトルとグラス、それにアイスペールの載ったお盆を持って現れた。女将がそれをテーブルの上に置くと、主はさっそく二つのグラスに氷を満たし、そこにボトルを傾けた。そして一つを祥子の前に置き、残ったもう一つを自分の口に運んだ。
「くー、こりゃうめえや」
 目を細めテカった頭をくねらせながら唸ると、またグラスを口に運んだ。それを見た女将があきれた声でたしなめる。
「あんた、乾杯くらいしたらどうだね」
「なに杓子定規なこと言ってんだ。今夜は無礼講だ。なあ祥子ちゃん」
「そうよ。ほら、おばさんもはやく」
「はいはい」
 苦笑いを浮かべて返事をすると、女将は厨房に戻り、ジョッキを手にしてふたたび現れた。
「なんだ、ビールかよ」
「とりあえず、ってやつよ。じゃ、もう飲んじゃってるけど、乾杯」
 女将が嬉しそうにジョッキを掲げた。祥子もグラスを持ち上げ「うん、乾杯」女将のジョッキに軽くぶつける。すると主はバツが悪そうに小さくグラスを上下に揺らし、「お、おうよ」蚊の鳴くような声で呟いた。
 その様子がおかしくて祥子がつい吹き出すと、主は想い出したように訊ねた。
「そういやさっきはなにをぼやいてたんだい? ずいぶん怖い顔してたけど」
「うん、これよ」
 祥子は椅子の横に放った新聞を拾い上げ、それを主の前に広げて見せた。
「ああ、例の政治家のあれかい。ひでえもんだよな。公金をてめえの財布のように思ってんじゃないのか。政治家は清廉高潔であれ、なんてもう死語だな。真面目に働いて税金収めんのがばからしくなっちまうよ。そういや、これをスクープしたのも祥子ちゃんとこだったよな」
「うん。でももう終わった話よ。ここまでくれば放っておいてもみんなが引導を渡すわ。それよりも、いまはもっと報じなきゃならないことがあるの――あ、そうだ、で、おじさん、お店の話は? 七転八起って名前のことよ」
「ああ、そうだったな……」
 主は視線を手にしたグラスに落とし、じっと見つめながら言った。
「この店を始めたのは、たしか二十五年ほど前のことだ。それまでの五年間は『満腹食堂』っていうフランチャイズの店をやってたんだ」
「え、満腹食堂って、あのイソダイ・グループの?」
 イソダイ・グループというのは磯辺大吉という、かつては実業家として名を馳せた、いまは衆議院の代議士をやっている男の創業した、日本を代表する外食産業の雄である。
「ああそうだ。世の中いまほど不景気じゃなかったし、そこそこ繁盛したものさ。で、二年ほどしてまた店を出したんだんだ。これも思いのほかうまくいった。でもそれがよくなかった。つい調子に乗っちまったんだな。商売の才能があるとかさんざんおだてられて、それからまた二年後に、さらに次の店を出すことになったんだ。いちばん最初に借りた開業資金すら返済しないうちにだ。さすがに迷ったけど、きっと上手くいくっていうイソダイの担当者のおだてと、ぜひ融資させてくれっていう銀行の甘い言葉に、つい魔が差しちまったんだな」
 一息つくと主はグラスで唇を濡らし、ふたたび話しを続けた。
「イソダイの紹介で横浜の駅前のビルに居抜きで店を借りたんだ。一等地だよ。でもあたりまえのことだが、すぐには客は入らねえ。毎月百万以上もの大赤字だ。何度も店を畳もうかと思ったけど、そのたびにイソダイの担当者の甘い言葉に決意が揺らいだ。軌道に乗ればすぐに儲けに変わります、ってな。銀行も同じだ。湯水のように融資してくれたさ。そうこうするうちに借金が膨らんで、それでも一年経ったころにはようやく客が増え始めた。毎月の収支もとんとんになって、さあこれから、というときだった――」
 そこでまた主はグラスを口に運び、今度は一息に飲み干した。祥子はボトルを手に取りそれを主のグラスに注いだ。
「あれだ、バブルの崩壊ってやつよ。いきなりきやがった。その店も、その前に始めた二軒の店も、とつぜん客が入らなくなって、たちまち運転資金が底をついちまった。けっきょく三軒とも店を失い、残ったのは膨大な借金だけよ。そのうち追い打ちをかけるように銀行が借金の返済を迫ってきた。景気のいいときは上手いこと言ってたくせに、いきなり手の平を返したような仕打ちだ。もちろん返せるわけがねえ。自己破産も考えたさ。でもそれだけはどうにも許せなかった。ああなったのはぜんぶてめえの責任だからな。借金をちゃらにしてのうのうと生きるわけにはいかねえ。だから家を売り、残った借金を、一生かけても返すことにしたんだ」
 祥子は黙ったまま主を見つめた。とても他人ごとのようには思えなかった。いや、同じような経験をしたといったほうが正しい。といっても彼女の場合はバブルの崩壊とはまた違った要因ではあるが――。
 主は続けた。
「でもな、働いて返すといっても、学もなければ、手に職があるわけでもねぇ。どうしたもんかとこいつと二人で途方に暮れてたんだ。死のうかとも思った。そんなとき、俺の古いだちが救いの手をさしのべてくれたんだ。想い出すなあ、なあ登美子」
 主が言うと、女将が遠くに視線を泳がせた。
「そうだわね。なんだか昨日のことのようだわ……」
「困り果てた俺たちを放っておけなかったんだろう。そいつが、亡くなった親の住んでた空き家をただ同然で貸してくれることになったんだ。それがここだよ。あのときはやつが神様のように思えたよ。死んだ気になってもう一度やり直そうと、こいつとそう決めたんだ。そしてその思いを忘れないようにって、七転八起って名前をつけたんだ。何度酷い目に遭っても、ぜったいに逃げねえってな」
「そうだったの……」
 祥子はそこでその話を終わらせようとも思ったが、お茶を濁すのはなぜか我慢ならなかった。現実から目をそらすのが卑怯なように思えたし、二人に気を遣うのも却って失礼だと思ったのだ。だから敢えてその質問を口にした。
「で、借金はいくら残ってるの?」
 主は少し悩む様子で顔を曇らせ、それでも静かに口を動かした。
「そうだな……ひとさまに言うような話じゃねえけど、祥子ちゃんは別格だ。身内みてえなもんだからな。聞いて驚くなよ、ざっと二億ってとこだ。頑張っても、利息を返すのが精一杯で、元金はたいして減りゃしねえ。それでも少しずつでも減らしたおかげで、不良債権扱いにならずに済んだんだ。ありがてえ話さ。おかげでこうして仕事ができて、なんとか生きていられる。それだけでも幸せってもんだ。なあ登美子」
「そうよ。むしろ生きてるって実感を味わえて、羽振りのよかった昔よりも幸せかもしれないわね」
 女将が丸い顔に明るい笑みを浮かべた。その顔を、祥子は複雑な思いで見つめた。一歩間違えば、かつて自分に襲いかかったような悲劇が、この二人の命を飲み込んでいたかもしれない――
 そのとき祥子の脳裏に、ふと気になることが浮かんだ。
「借りた銀行ってどこ?」
「三栄だ。三栄銀行」
 その瞬間、祥子の頬がピクリと動いた。
「三栄銀行、か……」
「どうかしたかい、祥子ちゃん?」
「ううん、なんでもない。そうだ、借金のことだけど、少しくらいなら私にもなんとかできるけど」
「だめだ。甘えた途端に、人間はだめになっちまう。フランチャイズをやってたあのころのようにな。なあ、登美子」
「そうよ。それよりも祥子ちゃん、これからもちゃんと店に来て、いっぱい食べていってよ。あたしらには、それがいちばんなの」
 女将が言うと、
「うん。いっぱい食べて、いっぱい飲むようにするわ」
 祥子は努めて明るく笑った。

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