2016年5月31日火曜日

執筆中の新作の冒頭部分をご紹介 その4

前回の続き――

 それから一週間後の六月中旬――
 関東地方も梅雨入りし、低く垂れ込めた曇天に街中がすっぽりと覆われていた。その日の夜も、祥子は例の七転八起のカウンターに座っていた。
「こう毎日雨が続くと洗濯物も干せないわ」
 祥子がぼやくと、
「へえ、祥子ちゃんも洗濯なんてするのかい」
 間をおかずに主がからかった。それを女将がたしなめる。
「失礼じゃないの、あんた。年ごろの娘さんに向かって、まったくもう」
「ありがとうおばさん。でももう、年ごろってわけでもないけどね」
「なに言ってんの。じゅうぶん若いし、まだまだこれからよ。それにこんなに綺麗なんだから」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
 祥子は苦笑いを浮かべ、焼酎の入ったグラスをゆっくりと揺らした。
「そういや先週のスクープはまたすごかったじゃねえか」
「なんだっけ?」
「三栄銀行のあれだよ。徳田とか野郎のからんだ」
「ああ、あれね」
「あれね、じゃねえだろう。難しい経済のことはよくわからねえけど、そんな俺でもびっくりしたくらいだ。これから大変なことになるんじゃねえのかい。三栄銀行も、徳田ってやつも」
「さあどうかしら――」
 祥子は素っ気ない返事をすると、女将特製の茄子の漬け物に箸を伸ばした。
「どうかしら、ってあれだけの悪事がすっぱ抜かれたんだ、ただじゃすまねえだろう?」
「そう簡単にはいかないのよ」
「どういうことだよ」
「いいおじさん。今回公にされた情報だけでは、三栄銀行も、徳田武彦も、すぐには告発できないの」
「どうして?」
「問題は、投資信託よ」
「投資信託? 例のあれかい、徳田商事が買ったとかいう?」
「そうよ。徳田商事が二百億円で、三栄のキプロスの子会社、SBトラストから購入。そしてケイマンのイースト・ファイナンスに五十億円で売った、投資信託よ。今回問題なのは、その投資信託の実際の価値なの。もちろんそれに二百億の価値があったのは間違いないわ。でも仮に三栄が、それはすでに目減りしていて五十億円の価値しかなかったと言い張ったら、どうなると思う?」
「さ、さあ……」
「違法なことは何もない、ってことになってしまうの。資産価値が五十億に目減りしたから徳田商事は百五十億の損失を計上した。そしてキプロスのSBトラストは、その五十億の価値の商品をケイマンのイースト・ファイナンスに五十億で譲渡。それを徳田個人が八十億で購入。脱税もなければ、横領もなし。そういうことになってしまうのよ」
「あっ、なーるほど! うまいこと考えやがったもんだ」
「感心してる場合じゃないわ」
「おお、わりい。あっ、でもそれだったら、その投資信託とやらの実際の価値を調べりゃいいじゃねえか。もしそれに二百億の価値があるとわかりゃ、連中の悪事が証明されるってことだろ」
「無理ね」
「無理?」
「どうやってケイマンの会社の所有する投資信託の中身を調べるっていうのよ。そんなことができるなら誰も苦労なんてしないわ。それに万が一それができたとしても、そのときにはその投資信託は、きっと別のものとすり替えられてるわ」
「なんてことだい……それじゃ、けっきょく三栄銀行や徳田って野郎が儲けて、それでお終いってことかい」
「ううん、それだけじゃすまないのよおじさん。徳田商事は百五十億円もの損失を出したのよ。これは本来一生懸命に働いた従業員たちにも還元されるべきもので、しかもその損失の分だけ、徳田商事がこの国に払う税金も減っているの。もっと言えばその利益は配当金として大株主の徳田に払われ、徳田はそれに見合った納税をしなきゃならかったの。つまり三栄や徳田は庶民のお金をむしり取って、税金も払わずに、それをまるごと自分たちの懐に入れたってことなの」
「なんともひでえ話だな。どうにかならねえのかい」
「私たちにできるのはここまでよ」
「じゃ、祥子ちゃんたちのしたことは無駄だったってことかい」
「そんなことはないわ。法では裁けなくても、三栄や徳田が悪事を働いたのは、誰の目にも明らかなんだから。それにこれだけ大騒ぎになったのよ。当局だって、今までみたいに黙って見過ごすわけにもいかないでしょうよ。メンツにかけても調べるに違いないわ」
「それもそうだな……」
 主はまだ納得がいかないという様子で腕を組み、渋い顔をして厨房の中に佇んでいた。

 そしてその翌日、世間の耳目が三栄銀行の話題に集まる中、例の政治家がついに辞任を表明した。
 祥子にしてみればそれはとうぜんの成り行きであり、選民意識に取り憑かれたこの傲慢で強欲な政治家に対して、微塵の同情も感じる余地はなかった。しかし彼女の心は言い知れぬ虚無感に襲われていた。
 この男のことを本当に非難できる人間なんて、いったいどれだけいるんだろう――
 同じ状況におかれたとすれば、きっと多くの人間が、程度の差こそあれ、似たような行動をとったに違いない。ひとりの人間の個人的な問題だけではかたづけられない、何か根本的な、現代社会の内包する大きな問題が隠されているような気がしてならなかった。
  その後もジャパン・ウィークリーは、大企業、銀行、著名な企業家らの疑わしい取引の実態を暴き、毎週のように衝撃的なスクープを流し続けた。
 そして梅雨の明けた七月の中旬、またもや大事件が勃発した。日本を代表する老舗の総合電機メーカー、あの五洋電気に、十年以上にも亘る粉飾決算の疑惑が持ち上がったのだ。しかし今度の事件はジャパン・ウィークリーのスクープではない。彼らの競合ともいえる『週間真実』によるものである。ことの発端はどうやら内部告発らしい。
「たいへん……」
 この国の経済界に、何か想像を超えた大きな変化が起きようとしている。そんな気がして、祥子は手にした新聞を思わず握り締めた。

―― 第一章終わり。第二章はこちら

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