表紙も(まだ暫定ではありますが)一応できあがりました。背景の写真は小生の撮影によるものです。
それでは、改めて作品を紹介させていただきます。
日はまた昇る、君の心に
粉飾決算、横領、脱税、法令違反―― 世間を騒がす企業不祥事の数々。しかし皆の目にする報道はおよそ事実とはかけ離れた虚像にしか過ぎない。
ニュース等では語られない生々しい経済の実態。
利益至上主義を正当化するための現代資本主義、それを構築し維持する資産家や権力者、あるいは既得権益者たち。遠心分離機にかけたように富は二極化し、道義や誠意は、拝金主義の下に蔑ろにされる。
本作品は、架空の経済小説である。と同時に、経済・社会の矛盾に焦点を当て、その矛盾に果敢に立ち向かう人たちの熱い姿を描いた、人間ドラマでもある。
※ 250円、Kindle読み放題対象
※ 書下ろし初公開
※ ページ数:約340ページ(40字 x 16行の文庫本換算)
以下、冒頭部分のご紹介です。
一 タックスヘイブン
五月初旬にしては暑い日だった。沢井祥子は浜松町駅の改札を抜け、勾配のきつい階段を小走りに駆け下りた。駅前の大通りに出ると、額の汗を拭い、目を細めながら顔を上げた。巨大なコンクリートの塊が何本も、黄色い陽光を背にして、まるで摩天楼のように黒く浮かんでいる。
「三十度近くあるんじゃないの……」
誰に言うでもなくぼやくと、祥子はふたたび歩を進めた。
沢井祥子、三十一歳――
歳のわりに若く見えるのは、化粧っ気のない童顔が理由かもしれないし、あるいはジーンズにスニーカーといったラフな服装がそう思わせるのかもしれない。といっても別に意図してそうしているわけではない。仕事がら、必然とそうなるのだ。
五分ほど歩いて社に戻ると、事務所は大変な騒ぎになっていた。ドアを開けるなり、編集長の大嶋のだみ声が響き渡った。
「山下、すぐに高木電脳を洗ってくれ! 大竹、お前はソフトブレインだ!」
「はいっ!」
ほぼ同時に返事をすると、二人は鞄をひったくり、脱兎のごとく駆け出した。茫然と立ち竦む祥子に向かって大嶋が声を上げた。
「おう、沢井か。で、どうだった?」
「真っ黒ですね。完全に政治資金規制法違反です」
「やっぱりな」
「これから裏を取ります。きっと、もっといっぱい出てきますよ」
彼女はいま追いかけている案件――とある政治家による政治資金の私的流用の疑惑に関する調査に、確かな手応えを感じていた。とうぜん「よし、徹底的にやれ」という応(こた)えが返ってくるだろう、そんな彼女の期待は、しかし見事に裏切られた。
「いや、それは後回しだ。それより大変なことになった。ほら――」
大嶋が机の上のコピーを手に取り、彼女に向けて振った。その見出しを見た瞬間、祥子は首を傾げた。
「ケイマン・リークス? なんですかそれ?」
「いいから読んでみろ」
祥子はコピーを手に取り、急いで目を通した。仕事がら速読は彼女の得意とするところだ。数十秒で内容を把握すると、祥子は顔を上げた。大きく見開いた目に驚きの様子がうかがえる。
「すごいのが出てきましたね……こんなものがいったいどこから?」
「ケイマンの法律事務所だ」
「法律事務所?」
「表向きはな。でも実態は、オフショア企業の口座の開設や、そこでの顧客の資産管理をするのが本業だ。まあ資産管理といっても、アレだ。租税回避や資産隠しの指南だとか、あるいは資金洗浄の手助けとかいった、極めて違法性の高いものだ。で、見てのとおり、その顧客リストが流出したってわけだ」
「そんなものがどうして流出したんですか?」
「それはわからん。フランスのリール地方のローカルな新聞社に、匿名で送られてきたそうだ。おそらくハッキングか、内部告発といったところだろう。でもそんなことはどうでもいい。問題はその中身だ。なにしろこの法律事務所が手がけた二十万社以上ものペーパーカンパニーや、その所有者の名前が、いっさいがっさい記されているんだ。前代未聞のスキャンダルだ」
「でも本物なんですかね、そのリスト……。ねつ造ってことは考えられないんですか?」
「まずない。漏洩した情報にはこれらの信憑性を裏付ける資料が山ほど含まれているんだよ。電子メールのやりとりだとか、機密文書の写しだとか。それに、契約書もだ」
「そんなものまで……」
「とにかく我々は最優先でこっちの方の案件に取りかかることにした。大物の高木電脳とソフトブレインはいまさっき山下と大竹に任せたところだ。それから三栄銀行も佐々木に当たらせることにした。お前は名簿を調べて、それ以外のめぼしいターゲットをリストアップするんだ。資料はサーバーに入れてある。すぐに取りかかってくれ」
「は、はい」
少し緊張した面持ちで返事をすると、祥子は自分の席に急いだ。
座る前にパソコンの電源を入れ、それからゆっくりと腰を下ろして、じっと画面に見入る。しかしこういうときに限って予期せぬことが起きるものだ。
「えーっ、なによもうっ!」
システムの自動更新の開始を告げるメッセージに、思わず祥子の口から愚痴がこぼれた。
それから五分ほどしてようやくシステムが立ち上がると、五十通近くもの新着メールは後回しにして、さっそく彼女は目的のファイルを開いた。
「すごい量ね……」
それはそうだ。なにしろ二十万件以上もの顧客情報が収められているのだ。わかってはいても、実際にそれを目にするとどうにも驚きを禁じ得ない。ひととおり目を通すだけでも大変な作業だ。祥子は、まずは日本人が関係していそうな会社だけを抜き出すことにした。
夢中で資料に向き合い、一息ついたときにはすでに五時間ほどが経っていた。時計を見ると夜の八時、窓の外にはすっかり帳が降り、隣のビルには黄色い明かりが煌々と灯っている。
少し考えた後、祥子はパソコンの電源を落とし、黒いナイロン製のバッグにそれを押し込んだ。長丁場だ。まずは英気を養って、続きは自宅ですることにした。
「お先です」
反応がないことくらいわかってはいたが、いちおう声をかけた。あんのじょう皆仕事に夢中で、顔を上げる者さえいない。せいぜい編集長がチラリと視線を向けたくらいのものだ。とはいってももう慣れっこで、そんなことはまったく気にならない。ここはそういう世界なのだ。
浜松町駅で山手線に乗り、品川駅で東海道線に乗り換える。横浜駅で下りると、少し歩き、「七(しち)転(てん)八(はっ)起(き)」という名前の定食屋ののれんをくぐった。
「おう、いらっしゃい」
馴染みの声がする。禿げ上がった頭に白いハチマキ。店の主(あるじ)がカウンターの奥の厨房で目尻にしわを寄せ、いかにも人の良さそうな笑顔を向けている。
「ずいぶんはええじゃねえか。で、いつものやつからいくかい? キンキンに冷えてるぜ」
「ううん、今日はお酒はなし。鯖の煮付け定食をお願い」
「おや、めずらしいじゃねえか」
「しょうがないわ。これからまだ仕事だし」
祥子は二人がけの小さなテーブルの椅子を引いた。腰を下ろすと、小太りの中年の女将が冷たいお茶の入ったグラスを運んできた。
「お疲れさま。といっても、まだこれから仕事だったわね。大変ね、キャリアウーマンってやつも」
これまた人の良さそうな笑顔でそう言うと、女将はグラスをテーブルの上に置いた。
「からかわないでよおばさん。キャリアウーマンどころか、とんだ肉体労働よ」
祥子が色白の顔に苦笑いを浮かべると、女将は豊満な体を揺すって笑った。
「なに言ってるの、今をときめくジャパン・ウィークリーの記者が」
すると店の奥から主の怒鳴り声が飛んできた。
「こら登(と)美(み)子(こ)、迂闊なこと言うんじゃねえ。誰かに聞かれたらどうすんだ。なんたってアレだ、ト、トップシークレットってやつだよ」
「いいのよ、おじさん。他(ほか)にお客さんもいないことだし。あっ、ごめんなさい――」
あわてて取り繕うも、時すでに遅し、主が皮肉交じりにぼやいた。
「ああ、どうせ客は祥子ちゃんだけだよ」
機嫌を損ねた子供のような物言いに、つい祥子は吹き出してしまった。
しかし店の主人の言ったことはそう間違ってはいない。ジャパン・ウィークリーはここ数年のスクープの連続で、世間に知らない者のいないくらいにその名声を馳せていた。とうぜん恨みも買っているだろうし、その記者であるとの噂が広まれば色々とやりづらくなるのは想像に難くない。
食事を終えると定食代の五百円を支払い、祥子は店を後にした。そこから歩いて五分ほどのところが、彼女の住むアパートだ。閑静な住宅街、と言いたいところだが、実際にはどぶ川沿いに安アパートの立ち並ぶ古びた街だ。薄闇を照らす街灯の明かりに、「リバーサイドハイツ・横浜東」と書かかれた表札がぼんやりと浮かんでいる。
四十平米の1LDKで家賃八万円、ターミナル駅から徒歩十五分という立地条件を考えれば格安だ。もちろんそれには理由がある。リバーサイドとは名ばかりでアパートのそばを流れるのは異臭を放つどぶ川だし、アパートはいまどきめずらしいモルタル造りの二階建てだ。しかも築二十年ときている。といっても安アパートに住んでいるのは、お金がないからというわけではない。実際彼女の収入は世間の一般サラリーマンのそれをはるかに超えていたし、貯蓄もそれなりにある。彼女がここを選んだのは、ただ、必要以上の贅沢を好まないという彼女の性格によるもの以外に何もない。
アパートの外階段を乾いた音を響かせながら駆け上り、祥子は鼠色のドアに鍵を押し込んだ。ドアを開け部屋に入ると、白いスニーカーを脱ぎ捨て、まっすぐ机に向かった。バッグから引っ張り出したパソコンを机の上に置き、電源を入れ、さっそくキーボードを叩き始める。
ようやく一息ついたのは、それから五時間も過ぎてからだった。時計を見るともう深夜二時。
「お風呂にでも入るかな」
ひとり呟くと、祥子は腰を浮かした。
熱いシャワーを浴び、濡れたストレートの黒髪をバスタオルで拭きながら、祥子は小さな冷蔵庫の扉を開けた。うっすらと白く霞む狭い空間。そこにはびっしりと缶ビールが並び、それ以外には何も見当たらない。その缶ビールをひとつ掴むと、彼女はふたたび机に戻った。ビールに口をつけ、後回しにしておいたメールのチェックを始める。といってもほとんどがゴミ箱行きだ。それもそうだ、重要な案件であればとっくに電話で連絡がきているに違いないのだ。メールのチェックを済ませると、今度はニュースサイトを開いた。彼女の部屋にはテレビはない。理由は至って簡単だ。スポンサーの利害によってよけいな脚色がされた情報は、彼女のような者にとっては百害あって一利なし。調査の勘を鈍らせるだけなのだ。
今夜の、いやもう朝方といった方がいいかもしれない――のネットのニュースサイトは例の政治家の不祥事の話題で持ちきりだ。そう、つい昨日まで彼女が追っていた、あの政治資金の私的流用の事案である。
「まったく遅れてるわね……」
彼女に言わせれば、それはもはや過去の出来事に過ぎなかった。もう完全に詰んだ将棋のようなものだ。この先は放っておいても勝手に話が進んでいくに違いない。しかもそれは、たかだか強欲な政治家ひとりに引導を渡すに過ぎないことだ。でも今度の事案はスケールが違う。世界の常識をひっくり返してしまうほどの、今世紀、いや、近代経済史上最大の大事件に発展する可能性すら秘めているのだ。
「おもしろくなってきたわね」
早くも半分近くに減った缶ビールを片手に、祥子は、微かに火照った顔に不敵な笑みを浮かべた。